彬が自宅から連絡を受けたのは、夕方から始まる会議に向かう直前だった。 「奥様が、奥様の行方が…」 電話口で叫ぶようにそう繰り返す使用人の話は要領を得なかったが、ただ香流が取り乱した様子で家を飛び出したことだけは伝わった。 すぐに秘書に命じて車をまわし、自宅へと急いだ。 何かが起きたのだ。 何かが…。 帰り着いた屋敷は騒然となっていた。 家の中だけでなく、庭に至るまですべての明かりが灯され、その周囲だけは煌々と無用な光を振りまいている。彼の指示を待ち、家で待機していた者たちは何をしたらよいのか分からないままに、ただ右往左往していた。 屋敷の周辺はすでに使用人たちが探し尽くしていたが、念のため再度手分けして当たらせた。 他にも手を回したがめぼしい情報はなく、一部の者を残してあとは引き上げさせた。 屋内は部屋という部屋すべての照明が灯され、日頃は明るく感じる廊下の明かりが薄暗く思えるほどだった。 香流の部屋も例外ではなく、電気が点けられ扉は開け放たれたままで、その混乱ぶりがうかがえた。 戸口から中を見たが、几帳面な彼女らしく部屋はきちんと整理され、片付けられている。 彼女がいないことを除けば、そこにあるのはいつもと同じ風景だった。 「何があったのか…」 それさえも分からず手の打ち様がなかった。 とりあえず自室で連絡を待つつもりで照明を落すと、彼は香流の部屋を後にして廊下へと出た。 ふと見ると、暗くなった廊下にドアの隙間から一筋の光明が漏れていた。 いつもは閉ざされた隣室のドアが細く開き、点けっ放しになった明かりが零れてきている。 放って置けば誰かが後で消しに来るだろう、そう思いながらも、なぜか彼はそのドアを開けた。 足を踏み入れた室内で一番最初に目に入ったのは、部屋の中央に無造作に折り重なるように詰まれた数冊のアルバムだった。 側には、おそらくその中にアルバムが収納されていたであろうダンボールが転がっている。 横倒しになった箱を元に戻すと、中に一冊だけ見覚えのあるアルバムが残っていた。 それは結婚式の時の写真を収めたアルバムだった。 彼女が探していた写真がなぜかこんなところにある。自分の持っていたものは彼女の目に触れないようにしてあるが、元々香流が持っていた写真はいつの間にか彼女の部屋から消えていた。 今まで探すこともなくそのままにしていたが…。 彼女自らここに収めたのか?いつの間に。 箱の底から分厚いアルバムを取り出すと、間から数枚の写真が滑り落ちた。 それを見た彼の表情が険しく変わる。 「まだこんなところに。すべて処分したと思っていたのに」 彼が手にしている写真を撮ったのは一年前のことだった。 場所は彼の所有する葉山の別荘。 体調がすぐれなかった彼女は、しばらくの間をこの海辺で過ごした。 神経を逆撫でするような周囲からの干渉から逃れ、二人だけで過ごせた穏やかな時間だった。 幾つもの誤解や軋轢を乗り越えて、少しずつ相手を知りながらようやく歩み寄ることを始めた二人は、あの場所で自分たちが互いを求めていたことを知った。 そして無駄にしてしまった時間を取り戻すかのように、寄り添い慈しみあった僅かな時でもあった。 今思えばあの頃が二人にとってあまりにも短かった最良の時だったのかもしれない。 だからこそ、彼は思いこんでしまったのだ。 何があろうと、もう決して香流との関係が揺らぐことはないと。 だが彼女はそうではなかった。 だからあんなことになってしまったのだ。 彬は思わず写真を額に押し当て、目を閉じた。 あの時すべてを正直に伝え、思いの丈を彼女に打ち明けていれば、もっと違う結果になっていたのだろうか。 例え、それがどんなに残酷な結果をもたらしたとしても、彼女の愛情と信頼を勝ち取れっていれば、共に苦難に耐える道もあったのかもしれない。 これまで彼は自分の行動に迷いを感じたことはなかった。 仕事でもプライベートでも、自らの信念に従い自分を貫き続けてきた。 しかし殊、香流に関ることは思うように運ばないばかりか、何をしても悉く裏目にでてしまう。 更に事故後から無意識に自分に怯えを見せる、一回り以上も年若い妻にどう接したらよいのかも分からなくなってしまったのだ。 彼が再び写真に目を落す。 美しい海岸線を背に、はにかんだ笑顔を向けるこの頃の彼女にはまだ幼ささえ残っていた。 巻き上げる風に煽られないよう押えたワンピースが彼女の身体にはりつき、丸みを帯びた曲線を浮かび上がらせている。 写真を持つ彼の手が震えていた。 見るのが辛すぎる写真はすべて処分させ、取り戻せない過去は封印したはずだった。 どんなに悔やんでも、この光り輝くような時の彼女を呼び戻すことはできないのだから。 彬はそっと写真を置くと静かにアルバムを閉じた。 そこにあったのは母となる幸せあふれ、輝くような笑みを浮かべた一年前の香流の姿。 この時彼女はその身体に彼の子供を宿していた。 香流の妊娠が判った頃、彼女の母もまた医師から重大な告知をされていた。 癌の発病だった。 発見が早かったため、まだ初期段階での手術が可能で、治癒できると言われていた。 手術前、医師の説明を受けるために家族が呼ばれたが、彬はそれを香流には伝えず、自ら母親の元に出向いた。 彼女がこのことを知れば自分の体を顧みず、母親の元に行こうとするのは目に見えている。ただでさえ体調が安定せず、医師から絶対安静を申し渡されている状態での長距離移動は命取りにもなりかねなかった。 「いよいよですね」 病室の窓から外の景色を眺めながら、母親に声をかける。 「ええ、いろいろとお世話になってしまって」 数日前、手術の説明を受ける時に家族として彼が一人で赴いたことに驚き戸惑っていた香流の母、香代も今は落ち着きを取り戻し、静かにその時を待っていた。 「大丈夫、良くなりますよ」 そう言い切る彬に香代も頷く。 「もう少し長生きしたいわ。せめて孫の顔を見るまでは」 妻が身ごもっていることは、前回ここに来たときに最初に知らせた。 安定期に入ろうかというのに不安定な状態が続く香流は、まだ周囲にも妊娠したことを伝えていなかった。 「もしも」ということを考えると喜びが大きい分失望もそれ以上になる。 伝えたい気持ちは人一倍だったが、それを思うとどうしても母には言えなかった。 「彬さん、どうかあの子をお願いします」 深々と頭を垂れる香代を慌てて遮る。 「お義母さん、そんなまるでこの世の終わりみたいに」 わざと明るく返したが、義母の顔は真剣だった。 「あの子にはずっと苦労をかけてきました。子供の頃から内気だけど我慢強くて、泣き言を言わない娘でしたが、私のことを気にして諦めたこともきっとたくさんあったと思います。 あなたと結婚すると聞いたときも、最初は反対しました。お金のために身を売るようなことだけは絶対にさせたくなかった…」 そう言うと、彼女は小さく息をついた。 「でも香流とあなたが愛し合っているのが分かったから…もう大丈夫。そしてこれから家族が増えれば、あの子が独りぼっちになることはないでしょう? もう私には何も思い残すことはありません。どうかあの子を守り、幸せにしてやってください、私の分まで」 手術は成功した。 彬はそれを見届けてから病院を後にした。 麻酔が切れかけ、朦朧とした意識の中で最後に義母が呟いた言葉は「香流は?」だった。 それから数時間後、香代の容態が急変した。 心臓発作 病魔よりも先に、弱っていた心臓が手術に耐えられなかったのだ。 急を聞いて取って返した彬も臨終には間に合わなかった。 それはあまりにも突然の悲報だった。 HOME |